

ゲーリン尚子
導入
大学卒業後、経理職、広告の企画、アートディレクションなどの職歴を経て、幼い頃より念願であったファインアートの勉
強のため渡米、Corcoran School of Art:に学ぶ。N.Y.、イタリア、東京などでの発表を経て体調不良により作家活動休止。
2020年より発表拠点を関西に移しリスタート。無垢の原型 coreの再生と循環、場に集積する記憶の想念などをテーマに平面、立体、インスタレーションなどで表現活動をしています。
深層への旅
京谷裕彰(詩人・批評家)
人生において、対立したり、背反したり、引き裂かれたりする出来事は絶え間なく起こるもので、心に傷を負う原因になることもあるが、その一方で経験を通じて人格が形成されていくきっかけにもなる。そんな中で、陰と陽、対極的な力のぶつかり合いやひっぱり合い、違和や摩擦の中で生じるエネルギーにふれたとき、物事の本質へと意識が導かれることがある。
作家が魂の本質として措定する〈CORE〉とは、そのようにある特別な体験を通じて覚知することになったものである。それは限界状況―事故に遭い、退院後も心身の不調が続いていた最中―で見た以下のような完璧なVISIONであった。
ーあるとき超越的な存在から自身の体内に光の球が受け渡され、お腹の中で重力をともなう振動を繰り返しつつ次第に大きくなり、やがてその球は爆発し自身も粉々の破片となる。同時に、自分が自分の身体を俯瞰していることに気づいたかと思うと、部屋は光で満たされる。それは法悦ともいえる忘我の境地であり、魂の本質に触れる機が訪れたー。
この絶対的な体験が〈CORE〉として表象されることになる。その最初期の作品が、墨とアクリル絵具で描かれた「Ke3_flow」(2011年制作。「e3」の意味はenergy, emotion, ecstasyの三つの「e」。陰陽を表わす2枚が対となった作品)である。
〈CORE〉は作品の中で原型そのものとして描かれる場合もあるが、必ずしも形象をともなった存在として描かれるとは限らない。しかし、ほとんどすべての作品に通奏低音のように響き続けているようだ。〈CORE〉があるからこそ、一つひとつの作品が強度をもって存在しうるようなものである。個々の作品を鑑賞するとき、ライプニッツの『モナドロジー』で説かれていることがとてもしっくりとくる。
作家が日々、その時々の様々な動機、様々なテーマで制作を続けていても、この絶対的な体験の瞬間に浴びた光の再現という課題が、つねに無意識の要請として持続している。創造性がつねにその超越的な光に導かれるようにしてある、とも言い換えられるだろう。また、個々の作品に付せられたタイトルは絵画制作というプロセスの中で、潜在意識の内奥へと光を当てる行為を通じて獲得されたものである。タイトルとして定まった言葉を辿ってみると、それらが作家の人生の謎を解き明かす鍵のように連なりをもって示されることに、ある時気づいたのだという。
したがって、絵も、言葉も、すべてが己の潜在意識に刻まれた傷を癒やすための象徴として産み出されたものといえるかもしれない。
〈CORE〉を覚知するにいたる絶対的な出来事は、啓示的な出来事でもあったのだろう。己の心身の内部と繋がりつつ、外部とも繋がるような感覚なのだろうか。いずれにせよ、心身の内部と外部とを通貫するエネルギーが環流し、また循環してゆく核としてあるのだろう。
ただし、真理そのものを不動のものとして把捉することができないのと同じように、〈CORE〉もまた同じように不動のものとしては把提できない。であるがゆえに、探求はこれからも続いてゆく。そしてその道行きのなかで、より強度を増幅させてゆくにちがいない。
描くこと、塗り重ねること、素材と出会いコラージュすること、それらが実践され産み出された作品に表象された造形思考を通じて、私たちは〈CORE〉へとアクセスする手がかりを得ることができる。だがその気づきを得たならば、ゲーリン尚子の作品を客体のように扱い、〈CORE〉を他人事のように対象化することはできないし、そのような立ち位置に留まってはいられなくなるだろう。
なぜなら、私たちにとって魂の探求、魂の成長とは、ひとしなみに人生の課題であるからだ。自己の深層と世界の深層とが交わる領域にある、名状し難いなにがしかが〈CORE〉なのである。
作品


































