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渡邉敬介

music Is = music exists
〜風のなか、夢のかたち
呼吸する線。

2025年6月10日~6月29日

11:00 - 18:00 | 月曜日·休廊

本展では、線が生きた存在として立ち現れます。息づかいのように、ささやきのように、そこにいた証として。渡辺敬介による最新の紙上作品は、小さな親密なドローイングから大きな巻物まで、多岐にわたります。裸体のスケッチと、京都を中心とした風景のプレネールドローイングという、いわば異なるふたつの世界を往還しながら、そのすべてを貫いているのは「線の身振り」です。線はただ描くのではなく、耳を澄ましながら紙の上を風のように漂います。

これらのドローイングは、記録としてではなく、「見ること」と「感じること」の音楽的な記譜として集められています。裸体のかたちは、枝葉や屋根の輪郭と同じように軽やかな注意深さで描かれています。肩甲骨も丘のかたちも、等しくやさしい手つきで捉えられ、それぞれが繊細なエネルギーを帯びています。

本展では新作の巻物も初公開されます。フランツ・シューベルトの『夜と夢』に着想を得て、動く人物たちの連なりが描かれたこの作品では、音楽の静けさとリズムに寄り添うように、人体が現れては溶け、また立ち上がります。流れる旋律のように画面を横切るこの線は、「在ること」と「移ろい」の詩的な瞑想を思わせます。

風景画もまた、屋外でのドローイングという実践から生まれています。観察を起点として、日常の風景を光とリズムの層として描き出します。構造に縛られず、場所のテンポに導かれた筆致は、建築、植物、影、街の断片をひとつの画面に共存させ、即興的でありながら夢のような空間を立ち上げます。

これらの構成は、厳密な写実や遠近法には従いません。代わりに、要素が重ねられ、歪み、浮遊することで、記憶が細部を積み重ねるような視覚的圧縮感が生まれます。作品は視覚の日記のように、個人的な経験と文化的な風景を曖昧に交差させていきます。ある作品には、日本の水辺の都市を思わせる風景が現れ、そこでは歴史と現代、静けさと賑わいが一体となっています。大胆な筆致や透明な重なり、絵の具のにぎやかな配置は、現代の視覚の密度への応答であり、祝祭の瞬間、あるいは穏やかな郷愁を感じさせます。

風景でも人物でも、渡辺の線は制御を求めていません。それは共鳴を探しています。一つひとつの線が触れるような即時性と、時間に寄り添う静けさを持ち、見る者にただ「見る」ことではなく、「記憶すること」と「存在すること」の間の間隔を感じさせます。これらの作品は、見るという行為に立ち返り、知覚が「今ここ」にとどまるための空間をそっと差し出してくれます。

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Yasuyo

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動きの中に描く

渡辺敬介の制作は、即興的なスケッチに根ざしています。それらの作品は、驚くほどの即時性と軽やかさを備え、洗練された感受性と美的な抑制のもとに描かれています。しばしば淡い墨で描かれた彼のドローイングや絵画は、日本美術に見られる簡素さと官能的なミニマリズムを想起させます。

渡辺は意図的にプロポーションを歪めることで、単なる見た目以上のものを捉えます。こうした繊細な変形は表現手段として機能し、人間の身体がもつ動的なバランスや、時間の流れの儚さをあらわにします。

渡辺はクラシック音楽の訓練を受けた音楽家でもあり、絵画を時間芸術として捉えています。彼にとってキャンバスは静的なものではなく、音楽のように流動的です。変化と統一、緊張と解放といった音楽的原理は、彼の視覚的構成の基礎となっています。作品の水平軸はしばしば楽譜の動きを思わせ、鑑賞という行為に聴覚的な次元をもたらします。

彼の制作において重要なのは、対象との物理的、感情的な距離の近さです。手が触れられるほどの距離、呼吸を合わせられるほどの間合いで描かれることで、モデルのぬくもりや存在感が、絵に共鳴として注ぎ込まれます。この近さから生まれる共感的なエネルギーが、静かな動きを人物に宿らせます。

渡辺の作品は、身体や風景を単に描写するのではなく、それらに命を吹き込みます。かたちは動き出し、表情は重なり、線は脈打つように生きています。彼の芸術は、身体を受動的な物質ではなく、関係性の中で変化し続ける能動的な存在として描き出します。それは固定されることを拒み、動きや応答、そして「なっていく」プロセスの中で展開していきます。

彼の動きに満ちた作品は、軽やかな技巧と気品に満ちた鮮やかな表現を見せてくれます。とりわけ、芸術を通して京都という都市に出会う鑑賞者にとって、それらは感覚の閾を開くような体験となるでしょう。身体は可塑的なかたちとして現れ、生き生きと動き、感情を伝えます。一つひとつのジェスチャーが知覚を更新し、存在と変化のリズムへと観る者を引き込みます。彼の芸術は、都市と同じように、生きて、呼吸し、つねに変化し続けているのです。


 

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