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渡邉野子「Night-Watch」2015

渡邉 野子

『「線が光を灯す」Night Watch - A Line that Hits the Light”』

2015年 12月09日 - 10月10日

 ​ 本展のタイトル『Night Watch』 は、レンブラントの「夜警」に着想を得たものです。アムステルダムで「Night Watch」の前に初めて立ったときの驚きと戸惑いの感覚を今でも鮮明に覚えています。その絵の生々しさとユニークさはそれまでに経験したことのない圧倒的な存在感を醸し出しており、その異様な雰囲気に息を呑みました。「この光は一体何なのだろう?」と、絵に、レンブラントに、自分に問いかけながら、見ようとするものが見るべきかたちで描かれていないことにたじろぎつつ、私は新たな自分を発見したような気がします。

 

 私の近作のコンセプトは「対比における共存」と、絵画と絵画の前に立つ人〈観察者〉との「触れる、触れられる」関係を、「線」の表す領域の広さと、油彩の光沢やみずみずしさ、筆あとや絵の具の厚みがイメージさせる身体的所作の艶かしさによって構築することです。

 「対比における共存」とは、相容れないものや拮抗するものが一瞬間を共有するときに現れる関係性を示しています。「支えるものと支えられるもの」、「骨と皮膚」、「かたさとやわらかさ」、「建築と肉体」など、対比によって浮かび上がるその存在意義や美しさを表現しています。そのイメージは、私にとって非常に具体的なイメージとして現れる抽象的概念です。

 

 私の絵画では、図像が描かれているのか、また、意味を結ぶのか結ばないのか、そのはざまの微妙な状態に描かれています。一目見ただけでは線と面による構成的作品のようですが、実際は具象「的」図像の気配を感じたり、観る人によっては確かなものを認識する場合もあります。これはひとつの「しかけ」であり、観察者と絵画の関係性を構築するための装置のようなものであると言えます。私たちが「見えている」と確信しているものが、実はまったく別のものであるかもしれない。「見せるものと見えているもののあいだにあるギャップ」や「見ることと認識」に関して絵画を通して問いかけたいと考えています。

 

 新作のタイトルにもなっている『身体の遠近法-Perspective of the Body』 は私のシリーズ作品のひとつです。「遠近法」とは、単なる透視図法のみを意味する語ではなく、距離や時間の長さ、そのありようにおいて、その相対を絵画と観察者〈Person standing front of the painting〉の関係において探るためのひとつのキーワードです。私にとって絵画は自己の身体を知覚し認知するためのものでもあります。人は見ることによって「絵画を認識している」と思いがちですが、線や色彩などの絵画の要素によって知覚されているのは観察者の身体そのものであると私は考えています。人は常にその絵画を前にして揺れ動き、不安定に佇む身体と向き合わなければなりませんが、その感覚が研ぎ澄まされることにより、生きる意味や悦びを共有し、アートにおいて美的なものへの深化が促されると感じています。

 

 私の線は積み上げられる地層のようなものでなく、交差し絡み合いながら画面全体でひとつの「自然な状態」を提示することを目指しています。画面の奥底へ、或いは画面の外へ上下左右に続く空間のふくらみのようなものを前にして、観察者が「どこに自分の立ち位置を置くのか」「自己をどのように成立させるのか」「遠くとは何か、近くとは何か」「遠い自己、近い自己とは何か」を問い直すきっかけになることを期待しています。

 

 作品においては、一枚の絵のなかに静的エネルギーと動的エネルギーが拮抗することを考えています。これを私は「neutral」な状態と呼んでいます。新作「Night Watch」と「身体の遠近法-秋,2015」では、これまでのどちらかというと静けさをたたえていた線の持つエネルギーがダイナミックさのベクトルに向かっており、また絵の具の厚みも加えることにより、絵全体がより力強さを示しつつ、複雑な内容を提示できるのではないかと考えています。

 

 私はバーネット・ニューマンと俵屋宗達の線がとても好きです。宗達の作品は高校時代から建仁寺や養源院に折りにふれ見に行きました。今のように琳派が流行語のように使われておらず、養源院のこともあまり取り上げられていませんでしたが、いつ行っても宗達の絵が間近で見られることに京都のリアリティを感じていました。醍醐寺の「舞楽図屏風」はとても好きな作品です。私にとってのこの絵の魅力は、「宗達が何をなそうとしたのか本当のことがわからない」からです。複雑で多様な内容を線と色彩という絵画表現に収斂するために、隠したり捨ててしまった部分があり、それとともに非常に神経を注いだディテイルと全体の様子が際立っている。見ていると本当にいろいろな考えがフラッシュのように私のなかに浮かび、はっきり認識できることもあれば、つかめないまま消えていくこともある。それは、見る者にとっては刺激的な状態であり、作家の意図が明快に整理されているからこそ、起こりうることなのだと思います。

 

 今年5月、ニューマンの「The Stations of the Cross」を見ました。2002年のテートモダンでのニューマンの回顧展以来約13年ぶりです。会場のミホミュージアムを二度訪れ、14枚ある作品の1枚1枚の絵について、絵の具や筆あとの痕跡を1つ1つ追いました。ロウキャンヴァスから最終段階に辿り着くまでのニューマンの制作プロセスを追体験し可能となったことは、この重要な主題を表現するために、数えきれない選択肢の中からニューマンが何を選んだかを自分なりに理解できたことです。人間の苦悩の問いという、深く遠く、不断に続く問いかけを絵画のかたちとしてもたらすために、ロウキャンヴァスと、白と黒の色彩の一見非常にシンプルな要素のなかに、複雑かつ明快で全体的な言明がなされています。ニューマンの「ジップ」の表す領域と、私の「線」の違いは何にあるのか。たった1つの線が美しい光を灯し、観察者と絵画の「触」の感覚が生成されることを望んでいます。

 

2015年9月11日

 

渡邉 野子(画家・美術家)

展示作品

渡邉 野子

Naoko Watanabe

 私の制作テーマのひとつは、絵画における「線の表す領域」によって、観察者が自身の身体、時間、空間のふくらみなど、不可視のものの在り様を知覚することです。画面上で線はそれぞれに役割を与えられ、時系列的な層でなく、お互いが交差し絡み合いながら全体としてひとつの連続した状態を生み出しています。絵画が示すもの、それは何かが崩れる前の一瞬間や未完の絵画の歴史です。そして、振動するのは崩れゆく事物や移ろう時間ではなく自身の身体であり、不安定な私達の身体を前にして、絵画は「ここ」と「いま」を提示しながら私達に触れています。世界のすべてが変化しても変わらないものを絵画のなかに表現することが私の関心事のひとつです。

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